Radwinpsの曲。
モメているらしい。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/06/11/rad-syazai_a_23455806/
世に出してしまったものならば、謝罪する必要もないが、謝罪することは自由だと思う。
なんだか、ナサケナイ。
そういえば、子供の頃、宇宙戦艦ヤマトが、ストーリィも主題歌も含め、玉砕賛美だといわれて、いろいろ揶揄されてたことがあった。
ワタシラが子供時代、戦争ごっこを禁止された頃、当たり前のように教育されてきたことがある。それは、学校だけじゃなくて、家庭でも。
実際の戦争体験をもっているひとたちの言葉や考えや、危機感を繰り返し繰り返し、念入りに刷り込まれてきていて、飽き飽きしてウンザリしつづけたことは、今の子どもたちには何にも伝わってない。
日本人には愛国心がないのか と 外人が言ってるという。
ヨソモノをはじめ、戦争体験が無い連中や、戦時中に比較的楽した人たち、もしくは、戦時中の洗脳から開放されずに、「あのわかりやすい思想」を伝えた人の子や孫が口にする愛国心は、いちいち誇りを問われて空回りして 踊らされてしまっているように思える。
腹の底の知れないものたちに、もっともらしいことをいわれて、血がのぼったときは、どういうことがまっているのか、しかけられるのか、考えてみたことがあるんだろうか。
大東亜戦争での日本人は、単純にして明解な「愛国心」を利用され、おどらされ、さんざん辛酸をなめさせられてきた。愛国心の象徴、国旗、国歌、宗教、ありとあらゆるものが、搾取のためのアイテムになった。国民は国民同士が監視しあい、首を締めあい、国家の家畜になり、生贄になり、命さえ奪われた。
精神を鼓舞させ贄になるワードというものがある。それは、玉砕そのものだという感覚を私は忘れない。
私の父は軍国少年だった。
旧制中学に通っている頃、バンカラの気風で、無茶をやり、結核を患ったが、昭和20年の8月、赤紙がやってきて、父の祖母と水杯をかわし、敵めがけて戦闘機で突っ込んで玉砕となるために、亀山まで向かう途中の駅で玉音放送を聞いた。そのショックたるや。アイデンティティの崩壊した父は、負った心の傷と影を持っていた。それのせいで、その子供の私は、随分苦しめられてきた。
ガイジンだろうが、戦争がどんなものだったかを教えられることがなかったヤカラだろうが、そんなものは、どうでもいい。みんなみんな、外野なのだ。
未来の子どもたちのために、戦争をおこさない社会にすることを義務のように思ってきた気持ちについてだって、どれくらい切実なのか、後悔の記憶を引きずり出し、苦しみ痛みながら伝えたことなんて、伝わりようもないんだろう。
正義は暴力だ。
誰かが傷つくしくみだ。愛国心は正義なのか?愛国心は国歌をうたうことなのか?愛国心は国旗をまとうことなのか?
国や肌の色、性別、宗教を問わず、人と向き合い、誠実に心を砕き、優しさをもち、見識をもち、ときにはグレーな言葉、グレーな対応をいとわず、うまくわたりあい、後に続くひとたちに道をつなげる・・・それがなぜ、非国民といわれなければいけないんだ。
賛美なんて、なんの意味があるんだろう。
うつくしい言葉がすぎたら、気をつけるべきだと思う。